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ケミカルバイオロジー
はじめに
私達はおよそ60兆個の細胞から成り立っており、その細胞は水分を除けば主に脂質、タンパク質、そして核酸から成り立っています。この極めて高度な機械ともいえる細胞の働きを調節しているのが、無数の低分子化合物(通常、分子量1,000以下)です。ビタミン、ステロイドホルモン、ヘムなどが生体内の低分子化合物として例に挙がります。また日常生活で時折お世話になる医薬品も、その多くは低分子化合物からなっています。しかし、様々な低分子化合物が生体内において分子レベルでどのような影響を及ぼすのか、まだ充分には理解されていません。市販され、我々が使っている医薬品ですら、薬効メカニズムが不明なものが多く存在しています。
複雑な生体システムを理解する上で低分子化合物は極めて有用なツールです。ある化合物が生体に影響するしくみの解明は、標的タンパク質が関与する未知の生体内分子ネットワークの解明に繋がります。さらに用いた化合物が医薬品の場合、こうした知見はドラッグリポジショニングや新薬開発にも繋がります。ケミカルバイオロジーというのは、こうした課題に取り組む学際的な研究分野で、私達は独自の相互作用解析技術(プロテオミクス)や遺伝学的スクリーニング技術を用いて創薬を目指した研究を進めています。
研究手法
研究室独自の手法として、FGビーズを用いた生化学的手法があります。当研究室は2012年3月に退官した半田宏名誉教授の下で、低分子化合物の生体内作用メカニズム解明を目的とした研究ツールの開発にチャレンジし、優れたアフィニティクロマトグラフィー用担体であるFGビーズを開発しました。FGビーズは磁性鉄(Fe
3O
4)をコアに持つ粒径140〜200nmの微粒子で、興味ある低分子化合物などのリガンドを固定化したFGビーズを用いることで、ワンステップかつ短時間で標的因子を精製できます。このビーズは非常にバックグラウンドが低く、高収率であり、ビーズ自体は化学的にも安定で、表面修飾(カルボン酸やアミノ基などの導入)を比較的容易に行うことができます。また、FGビーズは磁性を有しているので、遠心機を用いず、磁気分離による精製が可能です。FGビーズは製品化にも成功しており、
多摩川精機株式会社より購入可能です。私達はFGビーズを用いたケミカルバイオロジー研究により、これまでに様々な低分子化合物が織りなす重要で興味深いメカニズムを明らかにしてきました。
私達はまた、アフィニティクロマトグラフィー法ではアプローチが難しい分子間相互作用を探索・同定する新たな手法として、距離依存性のin situビオチン化法の開発も行なっています。さらに、相互作用ベースのアプローチを相補する機能ベースの遺伝学的アプローチとして、CRISPR/Cas9を用いたsgRNAライブラリースクリーニングも行なっています。
サリドマイド研究と新たな創薬展開
私達の創薬を目指した研究の最大の成果が、サリドマイド標的因子の同定です。サリドマイドは1950年代に催眠・鎮静剤として開発された薬剤ですが、当初見過ごされていた催奇形性を有しており、妊娠初期の女性が服用した結果、手足に奇形を持つ多くの赤ちゃんが誕生しました。このサリドマイド禍は史上最悪の薬害事件の1つとして記憶されています。しかしサリドマイド研究はその後も続けられ、サリドマイドがハンセン病や多発性骨髄腫(血液がんの一種)等に対して非常に優れた治療効果をもつことが判明しました。その結果、今世紀に入ってサリドマイドとその後継薬は世界的によく使われる医薬品としてスポットライトを浴びるようになりました。サリドマイドの作用機構は長らく不明でしたが、私達は2010年、半田宏名誉教授や伊藤拓水博士らとともにFGビーズ技術を用いて、サリドマイドの細胞内標的がセレブロン(CRBN)というタンパク質であることを発見し、この研究領域にブレイクスルーをもたらしました。
サリドマイドとCRBNは、単なる1薬剤-1標的分子の関係性にとどまらず、創薬の新たな基盤となる拡張性・発展性を持っています。CRBNはE3ユビキチンリガーゼ複合体CRL4
CRBNの基質を認識するサブユニットで、サリドマイド系薬剤がCRBNに結合すると基質特異性が変化し、本来は基質とならないタンパク質 (ネオ基質)のユビキチン化・分解が誘導されることが分かってきました。つまり、サリドマイド系薬剤はCRL4
CRBNとネオ基質とを橋渡しする「分子のり」として働き、様々なネオ基質の分解を誘導することで多様な薬効を発揮していると考えられ、CRBNのネオ基質の探索・同定が近年の重要な研究課題となっています。サリドマイド系薬剤の分子構造を少し変えると、異なるネオ基質のユビキチン化・分解が誘導されることから、分子設計次第で、これまで創薬標的となり得なかったタンパク質を標的とすることが可能で、創薬開発の新たなアプローチとして現在、大変注目されています。
以上のように、サリドマイド系薬剤は大きな可能性を秘めており、私達が精力的に研究している領域でもあります。私達の研究が人々の健康な生活に繋がることを願って研究を続けています。